新・じゃのめ見聞録  No.9

   聡明なる交渉人・山本覚馬の「管見」の冊子化を

2012.12.16


  たくさん出版されてきた八重のいくつかを読まれるとすぐに気がつかれることがあると思う。それは「兄」の「山本覚馬」の存在が尋常ではないのでは、ということに気がつかされるところである。ちなみに、山本覚馬の存在の大きさを感じられなかった八重本は、おそらく出来は良くないというだけではなく、八重や明治維新のことを理解しそこねているといえるかもしれない。

 山本覚馬を扱った本は、同志社が支援した 青山霞村著・田村敬男編集『改訂増補 山本覚馬伝』京都ライトハウス1976が基本図書で、その他に福本武久・高橋哲夫『会津武士 山本覚馬・丹羽五郎』歴史春秋社1991 や鈴木由紀子『ラストサムライ山本覚馬』NHK出版があるが、これまでは、知る人ぞ知るだけで、新島襄や八重の陰に隠れて注目されてこなかった。が、ここに来て安価な八重本を通して一気に山本覚馬の名が、一般の人にも知られるようになってきたと私は思う。さらにNHKの大河ドラマの脚本家・山本むつみの『八重の桜(一)』NHK出版2012を読んでも、兄の山本覚馬はとても丁寧に、重要な存在として描かれているのがわかる。
そもそも、こうした八重本や山本覚馬伝を知らなくても、同志社に勤めるものであるなら、一度ならず不思議に思ったことがいくつかあると思う。

 その一番大きな疑問は、なぜ天皇の住まいであった御所の真北に、さらに相国寺という大きなお寺の横に、キリスト教をモットーにする同志社大学がどうして設立を許されたのか、という疑問である。普通に考えれば、とうてい許されるはずのない立地条件下での大学設立である。なぜそんな場所での大学設置が認められたのか。
もう一つは、会津戦争で幕府の兵士として戦った女性・八重が、どうしてキリスト教徒の新島襄と京都で結婚するというようなことが起こったのか、という疑問である。百歩譲って考えても、そんなことは普通には起こりえない話である。

こういう疑問を解くには、山本覚馬の思想と歴史を知らなくてはとうてい理解できない。とくに一番大きな謎、なぜ今出川に大学を建てることが出来たのかということについてであるが、その表向きの答えは、もちろんそこに薩摩藩屋敷があったから、ということになる。その薩摩藩に、鳥羽伏見の戦いの最中に山本覚馬が薩摩軍に捕らえられ、今出川にあった薩摩藩屋敷にほぼ一年幽閉されることになってしまっていたからである。事実としては、このことはよく知られたことではあるのだが、しかし、この一年の幽閉の持つ重みは、伝記をたどるだけではとうてい推し量れないものがある。というのも、この「幽閉」と呼ばれる奇跡のような一年がなければ、彼は当然、会津の武士として鳥羽伏見の戦いに破れ、藩主・松平容保と共に会津へ撤退し、そのまま鶴が城で最後を迎えたかもしれないからだ。そこで仮に生き伸びたとしても、北海道開拓へ送られ、再び日の目を見ることはできなかった可能性の方が大きい。そうなれば、新島襄と出会うこともないし、今出川の薩摩藩屋敷を新島に誘致することもなかったし、もちろん妹・八重を紹介することもなかったのである。そのことを考えただけでも、新島襄にとっても、同志社にとっても、八重にとっても、山本覚馬はなくてはならない存在だったのである。

 そういうふうにいってしまうと、少し覚馬のことが見えてきそうな感じがするのであるが、しかし、彼が幽閉されていた奇跡の一年を理解するのは、そう簡単にはゆかない。というのも、薩摩藩に幽閉された会津の兵士たちの待遇は決して良くなかったからである。それなのに、覚馬だけは薩摩藩からも一目置かれていて特別待遇を受けていたのである。宿敵であるはずの会津藩の武士を、なぜ薩摩藩は特別に待遇しようとしたのか。そしてその幽閉の時点では、すでに覚馬は失明の状態にあり、その状態でも薩摩は覚馬を優遇していたのである。

 このことを理解するには、それまでの彼のたどってきた、蘭学の勉強とそれを通じて知り合った広い人脈のことが、理解されていなければならない。それは彼の伝記を丁寧に読むことではじめて見えてくるものであるが、特に、蘭学を通して彼の知り合った人脈への理解が必要になる。その人脈には、勝海舟、佐久間象山、横井小楠、西周、などがいたからである。この名前を見ると、当時の会津の閉ざされた武士の社会からは想像も出来ない、開国派の広い人脈と彼が通じていたことがわかる。それは、覚馬がそういう人びとと交流できるだけの高い交渉術を養い続けていたということなのである。

 鳥羽伏見の戦いで囚われの身になったときには、すでに薩摩側に、この覚馬という人材の優れたところが知れ渡っていたのであろう。それで特別扱いをされたのである。しかしその特別扱いは、単なる優遇のことではない。目の見えなくなっている彼に、これからの日本のあり方についての考え方を尋ねるという特別待遇なのである。彼はその要請を受けて、口述筆記させて、自分の考える未来図を描き、薩摩藩に提出していた。それが「管見」と呼ばれる漢文の文書である。「管見(かんけん)」とは、自分の見識や見解を謙遜していう言葉である。口述筆記したのは、同じく幽閉されていた会津藩士の野沢?一で、当時17歳の若者であった。
ではその「管見」の中身とはどのようなものであったのか。要点を一行にして以下に紹介するが、本文はもっと具体的である。

「管見小引」 ロシアやイギリス、フランスなど西洋諸国のことを説明し、それらの国による侵略にそなえる国づくりをまず説いている。
「政体」 天皇制の下、三権分立を説く。
「議事院」 国会を二院制にして、諸侯会議で国政を決定する。
「学校」 人材教育を政治の中心にすえる。教育が何よりも急務と説く。
「変制」 法の改正を、民を束縛しないようにすすめる。帯刀も無益と説く。
「国体」 封建制の改革。幕藩体制を支えた世襲制を否定する。
「建国術」 国家の基本を農業より商業におく、とする。
「製鉄法」 日本の近代化にはまず鉄が必要。熔鉱炉の設置を説く。
「貨幣」 紙幣の発行を説く。
「衣食」 「肉食」も良し、衣服の改善も必要と説く。
「女学」 男子と同じように女子教育が必要と説く。賢い女性から賢い子どもが育つのであるから、女性を賢く育てる教育が大事と説く。女子教育の大切さをこの時点で説いた画期的な提案。
「平均法」 長男相統ではなく、男女の子供の平等相続を説く。
「醸酒法」 米を使う日本酒ばかりでなく、麦やブドウや芋を使ったビールやワインの製造も説く。
「条約」 外国軍艦の出入港の規制を説く。
「軍艦国律」 軍艦は藩で持つことを禁止。
「港制」横浜・神戸を外国に開港するときの注意。
「救民」 種痘や性病の対策を説く。
「髪制」 経費節約のためにも長髪をなくすように説く。
「変仏法」 全国四十五万の寺を小学校にして一般農民・商人・職人らの学校をつくれと説く。

などなど。もちろん現代語訳されないととうてい私たちは読むことが出来ないのであるが、そうやって訳された「管見」を見ると、坂本龍馬の「船中八策」などと比較しても、優れていると、のちには評価される卓見が書き込まれている。一体、この時代にどうしてそんな優れた未来図を描くことができたのか。それは蘭学や多くの開国論者たちとの交流を経ることで、はじめて封建制度を廃止してゆく覚馬独自の未来図を描けるようになっていったのである。その卓見を薩摩藩も聞きたくて幽閉しながらも優遇していたのである。

このようなことを振り返ってみると、同志社が新島襄を大学の父とし、女子大が八重を大学の母とするだけでは、決して十分ではないことが見えてくると私は思う。とくに、「ならぬものはならぬ」というような没交渉的なキャッチフレーズを八重に託するような発想の校祖感覚は、本当に考え直してもらいたいと思う。山本覚馬の思考は、まさに「ならぬものはならぬ」とするような没交渉の思考法の対極にある、深い交渉術を生きるものだったからである。

 そこでもし八重を大学の母にするのであれば、その八重を、新島襄の妻に導いた兄・覚馬と共に女子大の礎にしっかりと据えてもいいのではないかと思われる。そのためにも、このNHKの大河ドラマが広がりを見せる中で、山本覚馬の「管見」が伝記と共に、現代語訳され、多くの人に見てもらえるように、女子大が中心になって冊子を作り発刊できれば、八重も本望と考えるのではないかと私は思う。